京都市北区の内科医院です。消化器内科、糖尿病内科、高齢者にやさしい医療、膵臓疾患、地域医療連携を得意としています。

膵の歴史

膵臓についてお話しするとなると、なんとなく躊躇したいような気がいたします。と申しますのも、一般には膵臓は他の臓器と比べて知名度も低く、疾病の頻度も割合低く、「膵臓ってどこにあったっけ。」と言われがちな臓器だからです。最近でこそ、慢性膵炎や膵臓癌の恐ろしさをマスコミなどで取り上げられるようになり、少しは知名度も上がったように思います。今回は、膵臓という臓器がどのように認知されてきたかを、少しご紹介いたしましょう。
 11世紀初頭、日本の医学は中国からの知識に頼っておりましたが、中国の解剖書では五臓六腑の記載しかなく、その書物内には膵臓の確認はなされていませんでした。五臓は『肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓』、六腑は『大腸、小腸、胆、胃、三焦、膀胱』をさしており、五臓六腑の中には膵臓は含まれていなかったのです。
1759年になって、日本の学者である栗山孝庵は、処刑された犯罪者の身体を解剖しました。その時、胃の後ろにあり腸の外側で腸間膜から剥離しがたい『もの』を、発見したのです。この塊こそが実際のところは膵臓でしたが、栗山先生の東洋医学の知識上ではそれが何であるかを判断しきれませんでした。
我が国において、最初に膵臓が登場するのは、1774年出版の解体新書まで待たなければなりませんでした。解体新書は、みなさんが歴史でお習いになられたように、杉田玄白と前野良沢が、ドイツ語からオランダ語に翻訳された解剖学の教科書を、日本語に訳した日本最初の解剖学書になります。その本の中で、膵臓は胃の後方、脊椎の前方に位置する組織として〔大きなKlier〕と、ドイツ語でアルファベットを用いたまま記載されておりました。膵という組織の存在は記載されましたが、彼らはその臓器(膵臓)を表現するのに適切な漢字がないため、漢字を用いることができなかったようです。
『膵』という文字は、1805年に書かれた宇田川玄真の医範堤綱という本に初めて登場しました。宇田川先生は、膵臓”pancreas”を表現するのに、もちづき『月』という文字(肉fleshを意味します)と全てeverythingを表す『萃』とを組み合わせて、ギリシャ語ではpan(all)+ creas(flesh)に相当する『膵』という字を発案しました。
西洋医学では、かなり昔から膵の存在は認識されていたようです。西暦約100年頃エフェソスのRufusという人は、膵臓という組織に対して、全ての肉(all flesh)という意味で”pancreas”と名をつけました。従って『膵』という文字は、”pancreas”にとって最もふさわしい漢字に翻訳されたといえるでしょう。おもしろいことに、膵という漢字は他の漢字のように中国から輸入されて日本語に取り込まれた字とは異なり、和製の漢字なのです。ちょっとめずらしい日本のオリジナルな字といえるでしょう。
不幸にも、その後80年間、『膵』に関する記述は日本ではなされませんでした。1879年になり、開業医向けの公的な教科書である七科問答という問題集に、脂肪便を伴う石灰化慢性膵炎に関しての半ページの文章が載るまで、膵は人々の意識の中から遠ざかることとなりました。
近代医学が進歩し、現在では超音波検査、CT、MRI、ERCP(内視鏡的逆向性胆管膵管造影)などといった様々な画像診断や血液検査などから、膵臓病の診断もかなり正確かつ容易になってきました。目立たない膵臓が、消化吸収や血糖の調節など、生命の維持に非常に大きな役割を果たしていることも分かってまいりました。しかしながら日本で『膵臓』という文字が誕生してから、まだ200年もたっていないのです。21世紀には、膵臓についてさらにその働きや病気の成因、治療法などが明らかになっていくことでしょう。
今回は、少し病気とは離れ、膵臓の歴史についてお話しいたしました